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第6回 齋 正弘 美術探検—実践余話 終了の報告

講師 齋 正弘
場所 そあとの庭1階
開催日 11月23日日金曜日
時程    18:00 開場
19:00 講義開始(1時間講義/30分質疑) 20:30 終了
参加者 : 10名
講話終了後、Contribution / 自主決定型参加費(各自がその日の話の値段を決める)で、齋銭箱に入れられた寄付金¥4,000がSOATに贈られました。

【6回話題 / 前回アンケート回答】

齋 正弘氏の疑問。

講話会第1回から毎回同じ質問が出るのは、なぜだろう?

近代以降の自我について
今まで近代以降の自我について語って来たが、例えば、こういった集まりに人が遅れて入ってくる場合、日本の場合は大変時間がかかる。ニューヨーク等で経験したことは、人はおくびれる事なくどこへ座るかをぱっと検討つけて、椅子がなければ、椅子を持ってその場所へさっさといって座る。それからニューヨーク時代に経験したコミュニティの集まりは、誰も彼もが自由に椅子を動かして寄り合い、意見を述べ、進んであれをやる、これをやると積極的に動いて実にたのしいものだった。こういう事からも、はっきり自我を持っている人と自我を確立していない、あるいは自我を持っているけれども、それを表す事に慣れていない日本人社会との違いを感じている。

たてまえ
消防署は防災に関しての規則もちだして、会を開こうとするといろいろとむづかしい注文をつけてくる。Aさんは真剣に聞いているうちに本気でそうだ、と納得してしまう自分に気づいて驚いた。しかし、斎先生はそれをたてまえと割り切ってハイ、といって受け流し、あとは無視する。たてまえだからである。最近の日本社会はたてまえだけが一人歩きしている。本音は忘れられてしまっている。恐ろしいことである。

なぜ裸体なのか

子から母への永遠なる思慕、母の偉大な力、を我が子を育てながら先生は目の当たりに経験したので、美術家が母のイメージ、女体を描こうとするのはごく自然な美への歩みである。そこには美術家によって表現が違うので、たとえは、佐藤忠良の女体の裸像は健康なHである。

質問

斎先生は初めからこういう思いをもっていたのか、それとも人生をやっていてだんだんこういう風になったのか。

大学の学生時代にいい先生に会った。これらのよき先輩達が自分をさまざまなことに気づかせてくれたのだと思う。

次回は12月7日(金)は、今年最後の講話会です。皆様のご参加をお待ちしています。

2012/11/26

記:SOATスタッフ、溝口佐知子

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